『映画 スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて』感想メモ

 

1 はじめに

 近況というか、2019年10月~12月クールはこれまで以上にアニメを見る気力体力がなかった。今は多少一息ついたと思う。めちゃくちゃ多忙というわけではないので、リステージのライブとか、プリパラ/プリチャンのライブに行く程度の余裕はあった。プリキュア関連で感想メモをいくつかメモするだけしていたは良いが、多分これ以上いろいろ見返して考え直して書き直して……というサイクルは取れなさそうなので、最低限の文にはしてアップロードしておきたい。

2 沖縄の意味をめぐって

 映画の舞台のひとつは沖縄だった。なぜ沖縄だったのか?話作りをする上でのいろいろな理由があるのだろう。その理由を知る由はない。「せっかくの映画だからロケ的なことをしたい」「修学旅行と言えば沖縄だろう」というノリが無いとは言えないと思う。(そもそも論として、実在の都市をわざわざ出すことの効果は、プリキュアをより身近に感じさせることに求められると思う。)

 他の土地がそうでない、と言うつもりは無いが、相対的に見て沖縄は日本という国・社会・空間とのかかわりのなかで、様々な民族が交差してきた土地であることは間違いない。意図しているとは思っていないが、同作品が「多様性」をキーコンセプトにおいているのならば、沖縄を舞台に選んだ意味は実は思ったよりも重たいものになっているだろう。

3 ひかるとララについて

 ひかるとララがこれから先も離れずに暮らすことを考えてみる。彼女たちがパートナーシップを結び、子どもを育てたいと考えたならば、どうなるだろうか(あくまでも、ありそうにない仮の話として)。2人の子どもが「人間」あるいは「地球人」であることにこだわる必然性は実のところない。また「子どもを育てる」という言い方も、決して正しい言い方ではないと思う。共に生きるなかで、生まれてきた命が可能性にあふれたなにものかになる手助けをしていくことが重要なのだと思っている。(だから、2人である必要も実は無いのかもしれない。)

4 羽衣ララという少女の生き方について

 羽衣ララという少女の生き方について、映画のなかではあまりに不器用であり、あまりに少女的に見えた。少女的というのは、星奈ひかるの方がよっぽど物分かりが良く見えたことの対比としてそうだった、ということ。「大人」ぶろうとしているがなんやかんや言って等身大の年相応の少女であることには間違いないと思う。(一方で、ユーマと関わるなかで、異星人として暮らすことのつらさや厳しさをわきまえてもいる。)

5 最後に

 一般的な話になってしまうが、どの映画(映画に限らず様々な作品)もそうだと思うけれど、映画それだけで終わりではない。娯楽作品としての映画には終わりはある。しかし、作品は我々の生き方を(良かれ悪しかれ多少は)方向づけ、導いていく(率直に言えば、自分は作品の影響力をどこか過度に見積もっている)。もう少し開いて言うのであれば、人の生きる道は作品の後にも続いていく。子どもたちがはじめて見る映画として本作品が位置づけられているのであればなおさら、作品が彼らに託す希望と未来の大きさ、そして輝きに思いを馳せてしまう。キラやば~。