『マギアレコード』第7話「一緒に帰りたい」感想メモ

 言いたいことは深月フェリシアの泣き演技にもらい泣きしてしまったということに尽きる。オタクなので不憫な少女が好き……(クソデカ主語and政治的に正しくない発言)。なのでこのエントリーは終了、以下は蛇足です。

 おそらくあのくらいの年頃の時に自分はああいう唸るような泣き方をしたことがある気がする。そういう意味でもらい泣きをしてしまった部分があると思う。あのくらいの年頃、と言ったが、あの泣き方は「子ども」として泣いているのではなく(ワンワンとかワーッとか)、〈人間〉として泣いているとも思った(小生は正気です。なお半角山括弧に特に意味はありません)。

 もう少しフェリシアの内面に寄り添うならば、なぜひとりだけ「我慢」しなければならないのか、おおげさに言えば人としての尊厳が傷つけられ悔しい思いをしてきたことのあらわれだと思う。(そして、顔を突っ伏して丸まっていたのは、泣かざるを得ないなかでの最後の抵抗に見えたし(端的に言えば泣いているところを人に見られたくはないし)、家族関係から解き放たれ金銭での関係性しかもはや知ることのない彼女の心が未だ閉じていることをあらわれだと思う。)

 ただし、いろはややちよが放った「我慢」と、フェリシアが積み重ねてきた「我慢」とは、(魔女と対峙することの前提があるとはいえ)若干意味内容が異なっているように思った。いろは達にとっては知る由もない部分があるのだから、あそこでの(悪い言葉で言えば)キレ方はあの場にいた皆にとって理不尽でもあるし、彼女の幼さの象徴でもあるのだと感じた。ただ、あそこまでの感情の表出があればこそ、彼女は「自分のために」生きるということを選び取れたのではないか、という気がしている。(おそらく意図的に境遇を寄せているのだろう)杏子がフェリシアに「自分のために魔法を使う」ことを伝えたことについて、それは決して魔法に限る話でもないように思ってしまった。

 どうやら、正確に言えば、両親の死には別の原因があるとのこと(wikiで喰らうネタバレ……)だが、そのことが明るみになったとき、みかづき荘での居心地が悪くならないかどうか、すごく気になってしまった……。

 蛇足の蛇足だけど、みかづき荘は何かを失ってしまった少女が集まってしまうところなのだろうか。フェリシアにとっての両親、いろはにとってのうい、やちよと鶴乃にとってのみふゆ。多分、負の力が強いひだまりスケッチなんだと思う。

 過去に囚われているやちよ(5話とか?)のことを考えながらEDを見ると、いやあそこで描かれている感情や動きの原因もきっかけも正直わからないのだけど、あれだけの激しさの後でラストの歩道橋をシラフで歩くところなんかは、失ったものがあったとしても世界が続いていく冷たさと、それでも歩いていかないといけない強さ(「私たちの道見つけたい」)を目の当たりにしているような気持ちになる(幻覚かもしれません)。

 まどマギもハマったとは言い難いし(叛逆も見る機会を逃しました)、マギレコもゲームをやっているわけではないのでわからないことも多いですね。6話も踏まえるといろはとフェリシアの実質デート(広義)回とか、神浜市でのフェリシアの位置づけとか、色々あるとは思うのですが。それでは~。

(追記:2020/11/14)フェリシアの泣き演技について、たまたま見ていた『無限の住人』の凛の泣き演技とも通じるところがあるように思った。