『アイカツフレンズ!』第11話「告白はドラマチック!」感想(メモ)

・みおがあいねを連れ出す場面。あいねを「奪った」ときのみおのなこへの眼差しの意味を解釈することが結構初見で難しいなと思った。いやまあそのまんまなのかもしれないんですが。自信というか、勝ち誇っているというか、「お先に」というか。あんな顔されたら私どうやって生きていけばいいかわかんない。

 どうでもいいけどエマの「ああ そういうことか」のキャプを見かける度に未だにドギマギしている。ひとつ上のおねーさんに何もかも任されたい。

 さて、ひとりあのベンチに残された海老原なこの気持ちはいかに……。一応、なこはあいねとフレンズを組みたかったわけではなく(そういう気持ちが微塵も無いとは言い切ることは実はできないが)、あいねに遠距離フレンズ(遠距離フレンズってなんだ遠距離っておい)の相談をしていたというフォローが入ったとは思うのだけど、観覧車の中、みお⇄あいねで盛り上がってきたじゃない!をやっているところ、なこちゃんはどんな顔して待っていたのか……。観覧車が頂上に達するのに意外に時間がかかるということは、その分待たされている時間も長いわけであって、そういう意味では手放しによかったねとは言い切れない面も実はある。

 さすがにあいねが一言連絡しているとは思いたいし(みおからフォローが入るとは思えない。下手したら恋敵なので。)、なこはあいねがみおとフレンズを組みたい、組みたいので努力をしているということを既に知っているので、これから何が起こるかは想定できなくはない状況だとは思う。

 あと、ラブミーティア結成秘話みたいな本が巷に流布していることを鑑みれば、作中のあのくらいの年齢の子がフレンズを組もうとするときにどのような状況を夢想するのか(ココちゃんに聞いたりするのか)、なこちゃんだって察しがつかないわけではないとも思う。

 (えっ素敵な嘘に踊らされてあのくらいの歳の子がドラマティックな関係をつくったりはたまた玉砕したりしているの?って考えたら胃の中のものがすべてお外に出てしまいそうになった。罪深い。)

 これで実際になこがあいねにフレンズを組もうと言っていたらどうなっていたのだろう。その上であの観覧車の場面が成立していたらどうなっていたのだろう。

・あいねがみおを特別な存在とみなしている。フレンズを組むことと、友達100万人は両立するという風に考えても良いのだろうか。決してみおがあいねにとってのone of themではないということは明確になってきているとは思う。とすると、逆にこれからみおが「友達100万人」についてどういう解釈を見せていくのかが楽しみな気もする。あいねのようなある種の哲学にまで振り切れるのか、自分なりの解釈を示すのか。あいねという人物を際立たせるための考え方にしてしまうのはもったいない気がする。

(そういう意味では、あいね側の葛藤というのはあり得るのだろうか?うまくフレンズ/友達を切り分けられるところもあれば、そうでないところもあるのでは、というか。)


(その他)
・ifの世界(二次創作の世界)であれば、あいね⇄なこで不倫ズしようや……ということもあり得なくは無いと思った。(やめなさい。)

・みおならあいねと他の友達のやりとりを盗み見しない可能性が無いとは言い切れない。(やめなさい。)あいねに依存せずに生きることができるか(できるとは思うけど……)。

・あいね、なこの元から立ち去ろうとした時のみおのさみしげな後ろ姿のカットがすごく印象に残っている。背中で語っている。そこから10話分(11話分)の走馬灯が流れ、高橋尚子ばりのメガネ外し。

・これからあと3クール何するんだろう。もっと言えば、2年目があるとしたら何をするのだろう……という気がした。あとはもう子作りしかなくないですか。

・ココちゃんが表情豊かで本当によかった。視聴者としてはフレンズの二人に割って入ることができないので、ココちゃんと頭のなかで遊ぶ(隠語)ことしかもうできない……。(というか、ココちゃんをそういう目で見てしまったらオワオワリ……。)モブおじの悲哀。

(2018/7/25 エントリータイトルを修正。)

是枝裕和『万引き家族』(2018)感想

 

総評

 グロテスクな映画だった。疑似家族が置かれた貧困に対してグロテスクだと思ったわけではない。
 何に対してグロテスクだと感じたのか。第一に、本来なら薄皮一枚めくると私利私欲の塊だらけの人間同士が、それでも寄せ集まることで、それなりにうまくいく集団に「なってしまう」ことの薄気味悪さ。これに対してだと思う。
 この作品の柴田家などまだマシな方で、家族乗っ取りのひどい場合は2012年頃に起こった某事件ということになるだろう。また、2002年の北九州の事例も。柴田家も一歩間違えばそうなっていた可能性は排除することはできないと思う。犯罪行為の上で成り立つ家族的な集団を描く上でギリギリの行為のラインが万引き(窃盗)ということになるのか。
 作中にスイミーの話がでてきた。言わばこの作品は直接的に倒す敵、マグロのいないスイミーのようにも一見思えた。スイミーの寓話は、それぞれの「持ち場」を守り、生活を支えていく(万引き等)柴田家になぞらえられていると思う。とはいえ、強いて言えば倒す敵は「社会」になるかもしれない。アウトサイダーの存在を黙殺、見て見ぬふりする社会?紋切り型ワイドショー的世間の目?これはなんとも言えない。
 柴田家以外の目線の描き方について、柴田家内の濃密な人間関係とは対照的なのかもしれないが、それ以外の人物があまり出て来ていないようにも見える。外部との関わりが増えるとバレる可能性が高くなるということを考えると、柴田家側からは必要最低限の関係しか作らない。
 また、よく万引きがスーパーにバレなかったな……という気にもなった。やまとやの店主にはバレていたとは思うが。信代のクリーニング工場の同僚(実質的に境遇としては信代側に近い)がりん(樹里)を「誘拐」したことに早々に気づいていたように、知っているけど周りが見過ごしている場合というのは多いのかなと思う。(関わったとしても何かができるわけでもない、余計ごとに巻き込まれたくない。)
 作中に民生委員(元地上げ屋らしい)が出てきていたが、知ってか知らずか初枝の一人暮らしだと見なしているようだった。なんぼなんでも初枝以外に人が出入りしていることに気づきそうなものなのだが……。

 

治と祥太の関係:男同士で通じ合う微温的な何か

 時系列があやふやであるが、祥太がまだりんの存在を受け入れられない場面があった。りんを「妹」として認めてはいないわけではないが、治との男同士の関係を大事にしたい、男同士の方が楽しい、りんに関係を邪魔されている?という気持ちがあり、りんに対してつれなく当たってしまう河原沿いの場面である。「父親」らしい気遣いが垣間見える。
 海に行く場面を思い起こすと、男同士にしかわからない生理現象について会話をする箇所がある。「おじさん」なのか「父親」なのかはさておき(どの場面で「お父さん」と呼ぶかどうか話があったか覚えていない)、男同士にしかわからないことがある。ただし、同年代のいわゆる同性の友人がおそらくいない祥太にとっては、勃起するかどうかなんて周りに確かめようがない状況であることもまた確かだろう。
 (考えてみれば、この柴田家は実質的に女系家族(比喩)である。貧困に据え置かれるのが、女性や子供という相対的に弱い立場であることが多い(印象論)ことの反映でもあるのだろうか。)
 祥太は学校にも通っていないので、同年代の子が受けるはずの適切な性教育も受けていないだろう。見ようによっては二人の関係は微笑ましくもあるのだけど、その微温的な微笑ましさは先に書いたようなグロテスクさの上に成り立っている。
 自動車の窓を割って窃盗する場面。このあたりで祥太は万引きに対する違和感を露骨に示し始めている。もはや犯罪集団の上司と部下・小間使いかと思わせるような関係。治の言動も、焦りなどもあり、若干荒っぽいものになっている。祥太はもはや治の手には負えない存在になっていく。祥太が事を起こさずとも、柴田家は何らかの形で早晩に瓦解していただろう。
 家族が崩壊して後、祥太は施設を無断外泊し、治のアパートに泊まる。一組の布団で背中合わせで寝る二人。治は祥太に対し、見捨てて逃げようとしていたことを詫び、「おじさん」に戻る。(元から赤の他人だが)赤の他人に戻ること、もうおそらく二人の人生が交錯する可能性が少ないことが示唆される。
 この前後の場面。「柴田家」があった頃、二人で路地裏で走り回った場面のアングルと、二人が再会し雪だるまを作る場面のアングルがどちらも俯瞰で撮られている。関係が変化する前と後で同じ構図を示している。訳もなく物悲しい。また、翌日に溶け始めている雪だるまには、関係の解消の暗示?を思わせるものがあった。それと、バスが発車してから、二人の顔が同じ画面に入ることはなかったような気がする(このあたりは記憶があやふや)。治は祥太を追いかけるが、バスの中の祥太はしばらく経ってようやく振り返るだけである。祥太が乗り込んでから、直接視線が交差することがない。

 

りん、信代、亜紀、4番さん:傷を持つ者同士の連帯

 先の祥太がりんを受け入れかねている場面。祥太はいじけて廃車の秘密基地にいる。帰って来ない祥太を心配するりん。りんが人に優しくする気持ちを持っていることに対し、「生まれて来ない方がよかった(産みたくて産んだわけではない発言と対応)と言われて育つとこうはならない」と言う信代。信代とりんの疑似親子関係が展開されていく。作中終盤、どうやら子供を持てない身体であることがわかる信代の事情も鑑みると切ないものを感じる。
 一方では親子関係の枠組みだけでは語りきれない関係もあるように思えた。確か海行きの水着を盗んだ後で風呂に入る信代とりんの場面があった。そこでりんのアイロンでやられた腕の火傷痕と、信代の火傷痕(これは職場のクリーニング工場で負ったもの?)が共振する。大人と子供、庇護する者とされる者を超えた、傷を持つ者同士のつながりがこの風呂の場面にあったように思えた。
 「傷を持つ者」同士の連帯は、亜紀と、亜紀の勤務先である性風俗店の常連客4番さんとの関係にも見出すことができる気がする。4番さんはおそらく吃音障がいを抱えている。その状況を抱えるなかで自分で自分を殴る経験、自傷の経験が、何らかの過去を有する亜紀と通じ合う。

 

精神的支柱としての初枝:土地を守り抜くこと

 とはいえ、亜紀については今ひとつどういう背景を抱えているかわからなかったところも多い。初枝が亜紀の家庭に定期的に金の無心に行っている場面はあった。少なくとも、亜紀の家庭において亜紀の居場所、亜紀に対する関心は薄そうである。初枝の元夫と、元夫の後妻の息子が亜紀父という理解で良いのだろうか?このあたりの人物関係はよくわかっていない。
 間接的な祖母―孫関係があり、初枝の布団で会話をする亜紀と初枝の姿が非常に尊いものに思えた。
 (なお、亜紀家から無心した金を初枝はへそくりしていたような気がするが、勘違いかもしれない。初枝が亡くなってから治と信代が遺品を漁る場面があり、そこから現金が見つかっている。年金以外の金の出処を考えたときに、亜紀家から無心した金なのでは、という気がした。)
 亜紀は表面上は金でつながる関係がデフォルトと考えている言動を見せているが、良い意味でそこまでスレてるわけではなく、柴田家をひとつの重要な居場所としている。ここは前後が逆というか、往還関係にあるというか、柴田家で過ごすなかで改善されていったのかもしれない。
 初枝は自分を金目当てで住まわせていたかもしれないと知る場面での問いかけ、自問自答に対する答えは、作中の亜紀はもはや知る術は無い。だからこそ再び柴田家の建物に立ち戻ってしまうわけだと思うのだけど、初枝に対する喪の仕事の過程で、そこは自分のなかで折り合いをつけていくしかない気もする。 
 祖母・孫関係についての補足。りんとりんの祖母の結びつきは強かったものと思われる。少なくともりんの実の母親と比べると……。りんが樹里に戻った後、母親が取材陣に対し「樹里の好きなオムライスを食べさせました」とコメントする場面があったが、正直りんがオムライスを本当に好きかどうかはわからない。あくまで一般的に言えば子供はオムライス好きそうだとは思うのだが。柴田家で鍋をつついている時にりんが明確に好きと答えたのは、りんの祖母が食べさせていたお麩であった。この母親はそのことを多分知らないのではないか……。
 ここに来て、改めて柴田家の精神的支柱は樹木希林だったのだということに思い至る。治や信代に「食いもの」にされていたのかもしれないが、それも折込済の強さがある。下町で地上げ屋にも屈さずにこの土地、家屋を守り抜いたある種の自負もあるのではないかという気がした。
 というか、海水浴の樹木希林とか、樹木希林のために撮られた映画なのか、という気もした。民生委員=元地上げ屋に対する凄みを効かせた老獪さも印象に残っている。


その他


・りんを雨の中走らせる場面。まあ結構この歳くらいの子にはシビアな撮影だったような気もする。
・とにかく家のなかの乱雑さ、生活感に嫌な見応えがあった。親近感すら湧いた。我が実家も貧困すれすれの住まいだったので……。
 特にりんを「拾った」時の作中季節は真冬であり、彼女が粗相をし、布団を処理する場面にはなぜか顔が引きつるものがあった。匂い立つものを感じた。
一方で、夏にかけての家の中は窓を開け放していた場面(雨の中のセックス)も相まって開放的だった。りんの存在が季節が春、夏と推移するにしたがって、少しずつ良い影響を与えたのかな、とも思ったりした。
 そう考えると、「家族」で海の行く場面で終わっていたらどれだけよかったことか……。保護されたりんが取り調べ?を前に画用紙に描く海水浴の場面。あそこで美しく終わっていたら。
 海に行く電車のロングショットを見て、ふと10年も近く前に見たきりの是枝監督の『幻の光』を思い出した。といっても思い出したシーンは、海沿いの町まで、トンネルを抜けていく電車だったかのシーンで、もしかしたら記憶違いかもしれない。

小路啓之ごっこ』について。『ごっこ』は確かロリコン青年が虐待されていた女の子を誘拐して疑似家族になる話だった気がするのだけど(雑)、そこでは主人公が自身の父親の遺体を床下に隠して年金せしめて……という流れがあったようななかったような。

 

(2018/7/25 エントリータイトルを修正。)

『アイカツフレンズ!』第8話「みおのCM大作戦!」感想(メモ)

・湊みおさんについてメモを残す。6話で買い出しにでかけた際に、ファンの子どもにバレてしまったときの対応とか鑑みて、アイドルという職業において要請されるコミュニケーションスキルはべらぼうに高いのだなということが推察される。いろいろ各話に状況証拠?はあると思う。なんだけど、以下記すように、いわゆる同世代との友達づくりには興味が無いというか、必要があると思ってないというか、ともかく多分にそういう状態なので、そのギャップにこの番組を見ている人の一部(ぼく)はヤられてしまう。あっ、ぼくの場合は職業的コミュニケーションスキルも低いのでした。アッハッハ。だから「みおちゃん……ぼくと同じなんだね……」とかまかり間違っても思ってはいけないよ。

・そういうわけで、タワマン(高層マンション?)暮らしで友達(一般的な意味で?)を呼んだことがなく、呼んだら呼んだでラブミーティアのオタクぶりを発揮してドン引きされる構図にいろいろ思い当たる節が無きにしもあらずで(我が身を振り返って/とはいえ自慢できるようなコレクションも持ち合わせていないが)、若干心が痛くなってしまった(キュン……)。

・俺妹の桐乃も外面は良いのだけど、クローゼットに几帳面に自分のコレクションを整理、収集し、秘匿しておくタイプだったということを思い出した(この場合は秘匿せざるを得ない事情があったと思うのだけど)。そういう意味では、別に秘匿しなくても良いのなら、部屋一面をラブミーティアのグッズで満たすという選択肢も実はあるような気がする。しかしそうはなっていない。やはりラブミーティアのオタクであって、さらには彼女たちを超えることを真に理解しあえる者にのみ、本当の心の内をわかってもらいたいというお気持ちが秘匿につながっている気がするけれどよくわかりません。(普通に考えれば整理整頓がきちんとできますよという教育的配慮だろうし、そっちの方が作中世界においても実用的だと思う。視聴者はアイカツフレンズ!のバインダーを買いなさいということだと思う(違う)。)

・図鑑が並んでるのを見て、几帳面で勉強熱心な姿がよくわかる。はやく好き好きあいね図鑑を執筆して芸カで頒布してほしい。よろしくお願い申し上げます。

・マカロン音頭については特に何も言うことが無く……。やはりローラのめでたいたい案件なのですか。「音頭」がこういうアニメ作品のなかで歴史的にどのような意味や機能を持たせられているのかという点は気になった。ぼくは結構音頭とか聴くと気恥ずかしくなるタイプです。

 (2018/7/25 エントリータイトルを修正。)