『若おかみは小学生!』(2018年)感想(メモ)

はじめに

 こんにちは。島田です。今更ですが、『若おかみは小学生!』を観てきました。
 以下、雑感です。(あっさり導入。)

事故のトラウマと向き合う

 アバンで高速道路での交通事故が描かれている。この事故でおっこは父母を亡くす。

 事故のトラウマは、グローリー・水領とのドライブの際、おっこの過呼吸という形であらわれる。

 また、事故の加害者(彼もまた巻き添えといえば巻き添えなのだが)が春の屋に宿泊してしまった(「してしまった」という言い方は変かもしれないが……)ことも、彼女の精神に大きな揺さぶりをかけることになる。

 パンフレットの監督のインタビューによれば、事故の描写は生々しくしないようにしたとある。

一方で事故については、さまざまなエピソードをひとつにまとめる時に「両親の死」という要素をはっきり描いておかないと難しいなと思ったのです。ただ、小さいお子さんも観るであろう作品なので、あまり生々しすぎないようにはしたいと思って、現在のような形にしました。 (『若おかみは小学生!』パンフレットより引用。ページ数不明)

 

 とはいえ、事故の「その後」について、あのような形で過呼吸や錯乱を描くことについては一種の「生々しさ」を感じてしまう。

 事故は一瞬、死ぬときは一瞬かもしれない(これは過言だとは思うが)。他方、「その後」とは自分が死ぬまで付き合わなければならない。

 もしかしたら、「その後」とうまく付き合い続けるために、様々な人との出会いが彼女に用意されたことについては、それはひとつの救いなのではないか。そういう気もしている。

 というのも、彼女が女将業なり、勉学なりに精を出す一方で、事故の記憶や体験を封じ込めてしまい、そのトラウマと向き合えないまま成人になり、成人してから歪な形で向き合うことになったら……その過程で過度な薬物や飲酒に溺れてしまったら……などとよくないことを考えてしまうから。(妄想がすぎる上に、専門的なことは知らないので、無責任なことを考えるのはよくないのだけど。)

 もちろん、(概して憐憫の伴う)親身なサポートは、おっこにとって負担でさえある。急激な環境の変化と女将修行(児童労働)は、むしろ彼女の感情の発露を抑圧しさえする。だから、上で書いた救いは完全なものでは決してない。

 神田あかねはもうひとりのおっこである。神田あかねのふてぶてしさのひとさじだけでも良い、おっこに分けてくれたなら……。

 (なお、割とあっさりと神田あかねは元気づけられてしまったようにも見えてしまった。それはさておき。)誰がおっこを励ますのか?他人を常に励ます存在は、誰に励まされるのか?それは「未来のおっこ」であるところのグローリー水領なのだろう。

 

神田あかねはおっこと同い年で、「現在のおっこ」と同じ悩みの中にいるキャラクターです。2番めのお客さんの占い師、グローリー・水領は「未来のおっこ」です。彼女が人のために占うように、おっこは人のためにおもてなしをしている。(『若おかみは小学生!』パンフレットより引用。ページ数不明)

 

 人をもてなす仕事の定め、大げさに言えば宿業に身を任せている者が、(同業者以外で)わかりあえる存在。(グロおこ推し。)

 木瀬家族の一件で結局のところ助けられたのはグローリーの胸騒ぎのおかげであって……(スルーされてしまったウリ坊(仕方ないとはいえ)泣)

加害者・被害者を乗り越えて


 3番目のお客さん、木瀬(父)は端的に言えばおっこにとっての加害者である。(厳密に言えば彼もまた事故に巻き込まれ、臓器をひとつ(腎臓?)摘出したうえ、これまで通りの食生活は送れなくなっている。)なんでも受け入れる湯治の場において、被害者は加害者を赦すことはできるのか。

 ピンフリに対する意地よりも客の喜びを優先するという(子供にとっての大きな)決断と謝罪をさせ、若女将としての自覚を描いたうえで、その自覚を根本から揺るがすようなひとつの試練。

 被害者という立場、肉親を奪われたという立場を超えて、あくまでもなんでも受け入れる場だからこそ、そして若女将という立場だからこそ、存在を受け入れることができた場面であった(「赦す」ことができた、と言えるかどうかはわからない)。

 峰子が言ったように「普通」という曖昧な基準で客を測ることはできない。その客引きの悪さは鈴鬼の力によるところも大きいだろう。それにしても、いくらなんでも……という思いがした。

 実在しない存在との戯れがおわりを迎えるその瞬間のために、喪の仕事を成就させるために、乗り越えなければならない最後の壁。

 ウリ坊、美陽、鈴鬼の3人とのやりとりが、肉親とのもうあり得ない会話と並行している。夢か現かわからない。まるで1年前に神楽を見た瞬間から、夢の中にいたような……。夢から抜け出すその最後、物語のラストは神楽の場面である。この別れの儀式については割とあっさりとしていたというか、立つ鳥跡を濁さずというか、できるだけ湿っぽくないかたちで描かれていた。

 なんといったら良いのか、彼女はあの神楽の場面で本当に温泉街の共同体に組み込まれてしまったのだなあという気もした。クラスメイトは温泉街の他の旅館なり和菓子屋なりで、引っ越して早々にピンフリをいてこまし一目置かれ、神楽の踊り手にも選ばれ……というある意味では共同体のなかでの出世ルートを歩んでいるようにも思えてならない。悠久の伝統に自らが連なることで、もう「赦す/赦さない」という次元を超越してしまった人格、存在になってしまったのではないか、と穿ってしまった。

 なお、木瀬一家は監督によれば「過去のおっこ」であり、やはりあり得たはずのおっこの人生というものを考えるとつらくなってしまう。

 

その他

 角川シネマ新宿で見て来たんですが、5Fでリゼロ展やってました。モエーモエー。

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