『カメラを止めるな!』(2017)感想

 「ゾンビ映画(A)を撮影してたら本当にゾンビが…」という設定のゾンビ専門チャンネル用番組(B)を撮影するなかでのドタバタを描いた映画(C)ということで、見かけたところによると、『ラヂオの時間』や『サマータイムマシンブルース』のような感じらしい。(どちらも未見。)

 ちなみに、僕は『トゥルーマン・ショー』を思い出した。だいぶ入れ子構造としては違う気もするけれど。

 以下、いくつか気になった点を備忘録として残したい。

 

 日暮隆之が監督役をやらなければこの番組はどうなっていただろうか。
 
 作中では、「作品」か「番組」かという対概念が出ていたように思う。ある監督、ある役者にとっての「作品」である前に、「そこそこの質」で納期に間に合う(加えてトラブルもない)「番組」として成立しなければならない。

 トラブル無くワンカットの撮影が終わったとしたら、それは当然「番組」として成立する。しかし、実際は日暮と日暮の妻の晴美が役者として出演することになったうえ、途中からは娘の真央が要所でディレクションを採るようになる。さらに、細田学の泥酔、山越俊助の脱糞、壊れるクレーンカメラ……等、数々のトラブルに見舞われる。

 これらのトラブルを、放送中止にすることなく乗り越えていくことで、結果的に「番組」として成立したばかりか、「作品」へと結実していく様子に見応えを感じた。

 もちろん、成立した番組は、不自然な演出(急に晴美の趣味の話になる、撮影の谷口智和が動けなくなり地面に固定されたままのカメラ、松本逢花と神谷和明のラスト場面の引き伸ばし等)もあり、お世辞にも洗練された出来ではない。(元々「そこそこの質」しか求められなかったとはいえ。)だから、視聴者にとっての「作品」になり得るかどうかは実際のところ微妙かもしれない。

 しかし、紛れもなく役者やスタッフにとっては「作品」として成立しているはずである(自信は無い)。「番組」として成立させるためのギリギリの綱渡りの攻防戦をくぐり抜けたからこそ成立した、ある意味では奇跡のような「作品」。とはいえ、スタッフにとっての「作品」であるかどうかは、実際のところ視聴者には関係無かったりするのだろう。(プロデューサーの二人もろくに期待していない始末である。)

 象徴的なのは、壊れたクレーンカメラの代わりの組体操であろう。その危険性から昨今批判されることも多い組体操であるが、なぜか胸を打つものがある。これは自分も組体操をやらされて育った故の刷り込みだと思う。ある意味では、組体操的なアマチュアのやり遂げる感動と似たものを感じているのかもしれない。それこそ、組体操の当事者としてだけでなく、運動会のホームビデオを眺めて涙する父親のような感動の在り方かもしれない。(組体操、そして日暮と娘・真央の肩車は、幼少期の二人の肩車と重ねられる。)

  「本物」を求める家族の姿勢が垣間見えた。
 おそらく妥協して仕事をこなす父と、妥協をしないために軋轢を起こしうまくいかない娘、そして役に入りこんで我を忘れてしまう俳優時代の経験を有する母という、演じることや映像をつくることの狂気にとりつかれた家族の物語でもある。

 穏やかで現実的な家族生活の様子の裏側には、語られてこなかった、そしてこれからも語られることは無い様々な作り手の苦悩が横たわっているのではないかと勘ぐってしまう。


  この映画そのものを「作品」でなく「番組」として捉えることはできないか。「作品」ではなく「番組」として考えたら、ドリフ大爆笑の舞台装置で破壊というか滅茶苦茶なことをやっているのを、実家の居間で見て笑ってたあの頃(といっても最盛期でなく90年代の特番)を思い出した。映画館の観客と比較的同じ場面で笑う、周到に誘導された一体感みたいなものがあった。やはり後半の種明かしパート、怒涛の伏線回収パートでは、そこここから笑い声が漏れていた。

その他

 劇中のゾンビ番組では、ヒロイン役が泣きわめきながら逃げているその背後を舐めるように撮影している箇所も多く、人によっては性的な興奮を覚えるかもしれない。撮影の特徴について語ることは出来ないのだけど、やはり劇中劇での画面のブレ具合で酔ってしまう人もいるのだろうか。

 

 

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